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萩原教授活動レポート

長崎丸に乗船した、萩原教授の活動レポートです。      

■3月23日(水曜)

 未明に長崎県の沖合に戻ってきました。長崎県からの依頼で緊急出港した長崎大学水産学部の附属練習船長崎丸は、吉村船長ら士官・乗組員22名が一丸となり、この危険がともなう航海任務を、いつものことのように、みごと無事に終えてくださいました。大学では卒業式を間近にひかえ、来月には入学式、そして新年度の授業が始まります。そのかたわら、自分も今回の航海の経験と考えたことを水産学の研究者、教育者の立場で、今後の復興に少しでも役立てるよう活動を続けていく予定です。船に同乗した水産学系大学院の土屋君も、多くのことを考えたと言っています。
 来週、東京で開催予定だった日本水産学会は中止になりましたが、学会の水産政策委員会が震災復興に向けた臨時勉強会を開くことになり、その席上で、今回の長崎丸の活動について、写真とビデオを使って報告します。そのビデオは、工学部1年松岡君が、航海中に撮影した動画像を、長崎に戻る船の中で10分のDVDに編集してくれたものです。また、日本学術振興会・学術システム研究センター研究員として、東北・関東地域の水産・海洋研究機関が行ってきた研究活動の被災状況と今後の回復の見通しについて、動向調査を開始する予定です。(了)

■3月22日(火曜)

 日本海側を航行し、ようやく九州に近づいてきました。学生時代に研究指導をいただいた先生から、「お体(これが並外れて丈夫であることはよく分かっていますが)に気をつけて無事ご帰還下さい」との慰労の言葉をいただきました。今日は、同乗の長崎県職員4名、学生2名、長崎大学事務職員3名は、船内の清掃と食事の準備・片付けのかたわら、報告書の作成と写真の整理にかかっています。目的地が決まらないまま出航したのは、水産学部練習船では初めてだったのではないでしょうか。出港間際に乗船者が増えたため、食糧はぎりぎり10日分。逆浸透膜による淡水製造装置を保有していますが、浮遊物の多い海域では使用不可のため、1Lでも多く被災地に届けられるよう船内生活での節水指示がありました。どなたかからのメールで御質問のあった、宮古からの帰崎ルートは最短のものです。目的地が仙台港ならば、帰りは再び福島沖を迂回通過して太平洋側から戻るルートを、岩手県が行き先ならば日本海経由で、北海道と沖縄以外の日本を一周するルートをとることを、キャプテン(船長)があらかじめ決めていました。岩手からは黒潮を逆行するよりは、日本海を通った方が早いのでしょう。
 目的地が決まったのは小名浜に着岸した日の前日夜。小名浜では自衛隊の船より早く、最初に本船が救援物資を持参できたとのこと、喜んでいただきました。宮古港でも、自衛隊以外では最初の救援船でした。長崎丸が入港したことで、今後、船舶が安全に入港できることをPRできると、両港の港湾局の方がうれしそうに話されていたそうです。長崎の友人からメールがあり、福島寄港時のことが数枚の写真と共にテレビで紹介されていたようですね。
 被災したにも関わらず、研究仲間の水研センター宮古栽培漁業センターの藤浪さんが、貴重なガソリンを費やしてかけつけてくださいました。センターの皆さんが、ご家族と共に全員無事との知らせを聞いて胸をなでおろす一方、何かできることはないのか藤浪さんに再三お聞きしましたが、多少の不便はあるが元気に生活しているというお答え をいただくばかりでした。こちらが長崎県からの依頼を受けた、公的な救援船であることを意識されていたのだと思います。藤浪さんには物資を下ろす作業を手伝っていただき、また、車で被災域の視察をさせていただくなど、結局こちらはそのご厚意に甘えるばかりで何もできませんでした。「彼は毎日どんな生活をしているのだろう。研究に来ていたという院生は、今どこで何をしているのだろう。」宮古を後にしながら、そんなことが気になってなりませんでした。こちらも大急ぎで乗船したので、船から供給される食事以外に、飲み物や食べ物の持ち合わせはまったくありませんでした。報告を受けていたように、昨年あたりに建てられたばかりの新棟を含め、宮古栽培センターは建物が全壊状態です。 明日10:00、 長崎市三重式見港に着岸予定です。 

■3月20日(日曜)

 長大水産学部の長崎丸が出港して7日目、満載した救援物資を福島の小名浜と岩手の宮古に届けて任務をひとまず完了。余震と津波、原発による放射能汚染、漂流物による船の損傷、等々、危険を伴う航海でしたが、幸いここまですべて順調にはかどりました。日本海周りで帰途につきます。23日に帰還予定。津軽海峡はまったくの凪で、船から下北半島大間崎方向に見える朝日がなんとも美しく、地震と津波をもたらした同じ惑星の仕業なのだろうかと、虚しささえ感じます。地球環境との共生という言葉も、人の驕りに思われます。被災地の惨状をこの目で確かめ、何が必要なのか考え続けています。
 水産業では、沖合に避難した漁船が戻り、一定の漁業活動を再開できても、海岸地帯に集中していた冷蔵冷凍設備や製氷設備、加工工場等が津波のために壊滅状態です。 一致団結して、活況を呈する三陸沖漁業の町の一日も早い復興を目指さなければなりませ ん。

■3月19日(土曜)

 宮古港に予定通り08:30着岸。現地の港湾局の方々のほか、被災した水研センター宮古栽培漁業センターの藤浪さんにも出迎えていただき、救援物資の荷下ろし作業を手伝って頂いた。藤浪さんの元気な姿に心の底から安堵した。長崎大の阪倉教授が藤浪さんに長崎丸到着について連絡をとっていただいたようであった。その後、長大の学生3名(長大水院、医、工)と共に、藤浪さんの自家用車で市内を視察。震度5強で地震の被害はほとんどなかったが、その後の再三にわたる津波の被害が甚大で、水産業の中枢がある海辺は壊滅状態。鉄筋3階建て(?)の市役所も1Fと2F部分が津波の被災を受け機能していないらしい。市内を流れる閉伊川を渡る三陸鉄道の鉄橋が崩壊している。漁業活動が回復しても、氷や冷蔵・冷凍設備がないなかでの水産業をどのようにイメージしたらよいのだろうか。回避した漁船が戻っている光景も見られる一方で、石を積んだ大型の作業船が海から遙か彼方の陸地に打ち上げられているなど、被害を受けた船舶は甚大な数にのぼる。一方、高台にある津波の影響を受けなかった市街地はほとんど被害がなく平時と同様にも見える。藤浪さんのお宅では今は電気が通じてTV を見ることができるが、水がなく、10分ほど歩いたところにあるわき水まで出かけて水を確保している。そして仮設されたアンテナのそばまで出かけないと電話連絡できないとのこと。途中の高台で撮影をしていたフジTV系の「めんこい放送局」の取材を受けた。藤浪さんの職場の栽培漁業センターを視察。新築の棟を含め、全施設が壊滅状態であった。ただ、全職員がご家族とも無事であったことを伺い、たいへん安堵もした。東京海洋大と京大(?)から派遣されて研究活動を行っている2名の学生も無事!しかしどなたもかなりきわどい逃げ方をされたようだった。
 荷下ろし作業中に、釜石の避難所などで医療活動を展開中の長崎大医療チームの山本先生、本田さん、高山さんが車2台で宮古入港中の長崎丸に到着。車1台は東京で借用したレンタカー、もう一台は長大水産学部の公用車日産キャラバン、長大では唯一のディーゼル車である。この地で山本さん、本田さん、そして水産学部の慣れ親しんだ車に出会えたことに感慨を覚えた。長崎丸に乗船してきた調理事、カウンセリングの田山准教授、原田医師、医学部3年次生の野田君4名が船を離れて彼らに合流、現地の医療活動現場に向かうとのこと。東大大気海洋研の付属センターがある大槌町で医療活動を行うもよう。長崎丸で昼食後、医薬品、食糧等を積んで12:00頃出発した。ご健闘を祈ります。残念だったのは、小名浜でも宮古でも給水車が準備できず、積載した100トンの水をそのまま持ち帰らざるを得なかったこと。たったいまオールメンスタンバイがかかった。これから宮古を出港し、津軽海峡を越えて4日間の長崎への帰路に入る。宮古と小名浜は東北を代表する屈指の漁港。サンマ、サケ、ヒラメ・カレイ、ホヤ、ウニ、アワビ、ノリ、ワカメ等々の北の海の幸。再び活況を呈する日々が一日も早くやっ  てくることを心の底から祈りつつ、14:40全ての任務を終え、出港。日本海周りでの帰途。長崎帰着は繰り上がって23日午前の予定。  

■3月18日(金曜)

 05:45起床、朝食。07:00小名浜入港。藤原埠頭に着岸。5つの埠頭のうち最も南の本埠頭の被害が少なく唯一使用可能であるとのこと。救済物資の半量を現地の港湾部職員6名と約1時間かけて下ろし、栃木から福島に災害派遣の自衛隊に託した。午後には本船の出航後、自衛隊の輸送船舶が到着し、荷物を下ろすとのこと。08:00頃、自衛隊の4トントラック3台と補給車2台が到着。事前連絡にあったマスコミの取材はなかった。国土交通省小名浜港湾事務所の西尾保之所長と福島県港湾部の方の案内で、ワゴン車に乗船者4名(崎野、調、田山、萩原)で乗り込み港湾施設を視察。被災後1週間の間に復興作業が少しずつ進み、港湾域全体を車で移動することが可能だった。多くの工場、東京電力の石炭積載場、小名浜水族館アクアマリンと関連ショップ、魚市場と近隣の食堂、漁業体験施設の全てが被災し、機能を停止。人影もなし。6車線道路の両側に、震度6強の地震と津波被害の実態を目のあたりにした。電気はなく、夜は真っ暗になるとのこと。信号は全く機能せず。車もめったに通らない。ガソリンの調達はほぼ不可能。現地で給水車が調達できないとの連絡が前日にあり、本船に積載している100トンの水の給水作業を行わないことを事前に決定していたが、水を希望する住民がバケツ等をもって多数待つ、ような憶測も船内ではあった。しかし、あたかも海に近づくことを恐れるように、港湾内に住民の人影は全くなかった。物資を下ろす作業に来た方々や、案内をしてくれた港湾部の方々の心境も計り知れず、福島原発という言葉に敏感に反応しておられる様に見受けられ、平常心で明るく話されているように見受けられた。
 津波で打ち上げられた複数の船が住宅街まで進入している光景が普通にみられた。津波によって陸に乗り上げた船や、流された車が散在し、内外部が損傷を受けた家屋が目立つ。一方、沖合に避難した後、戻ってきたと思われる漁船もあり、この水産業の町に魚市場が機能を再開する日が1日も早くやってくるよう願った。水産試験場は湾北部の高台にあり、建物外部からみて被害は少なかったもよう。通勤と思われる車が5,6台見えたが電気は確保できているのだろうか。水試のさらに高台に市民の憩いの場の公園があり、展望台に亀裂がないことを確かめてから登って港内全域を見渡した。大きな建物の損壊はないので遠目には平時と変わらないようにも見えた。
 長崎丸ブリッジで測定された放射線量は0.58μSv/h。高めだが安全レベルである。
 帰船後、念のためガイガカウンタで体の放射能測定。アイソトープセンターから300 cpmを基準に除染することを言われたが1000 cpm以上を測定する例が頻発。その後本部との連絡で、300 cpmはRIセンターのラボ内の基準であり、現場では15000 cpmを基準としてよいことが確認された。
 10:00頃、小名浜を出港。本船のブリッジから海上に漂流物が多数みられる。転覆した状態の小型船舶や家屋の残骸が目立つ。一方、多数の海鳥やアザラシのような海獣類もちらほら見えた。自分はその場所にいたが結局アザラシのような生き物は確認できなかった。
 前日に海上保安庁より、福島原発から半径30 km圏内を航行しないよう通告があり。本船は小名浜より85 km離れたのち15:00頃、北に進路変更。17:00から18:00に福島原発に最接近し、沖合80 kmに到達。大気中の測定値は0.08μSv/hでった。明朝08:30宮古に寄港予定。
 明日、宮古で調、田山、原田が下船し,遠野の長大医療グループに合流する予定。遠野の民宿古軒に仮設本部(長大の東京オフィスから移動した本田さんと長大本部の高山さんが駐在)と連絡を取り、宮古までの出迎え等の依頼電話に忙しい。長大の医療チームは釜石で医療活動を行っているもよう。調理事らは24ないし25日花巻空港経由で帰崎の計画のようであった。
 16:30から本船の操舵室(ブリッジ)へ。17:00福島第一原発沖合を通過。0.08μSv/hを測定。平時の長崎と同量であった。陸から80km沖合、水深2000m以上の海域の航行だが、陸由来の漂流物が依然として多数。潮目になっているらしく、おびただしい量の漂流物が集積している海域があった。家屋の残骸、ふすま、本棚、多数の畳(断熱用の発泡スチロールを含んでいるらしく海面に浮いている)、ソファのクッション等々。家の大きな屋根がそのままの形を残して漂流している。そして養殖筏の残骸。地震と津波によるすさまじい猛威。これらの家屋や家財と共に生活していた人々が無事に避難できたことをひたすら祈らずにいられない。震災から7日たち、水温10℃の海で生存者が漂流しているとは考えにくい。18:00日没し暗くなったのでブリッジを離れる。明朝の日出は05:37。
 14:15長崎県からファックスが入り、翌日宮古の入港は藤原埠頭(小名浜の埠頭と同じ名称)。0830入港、11:00作業開始予定。現地では地元対応者4名と自衛隊4トントラック2台が来るとのこと。携帯とネットは使用不可。衛星電話が主な通信手段だが繋がりにくい状況。その後の連絡でauは圏内かもしれないとの情報も入った(実際には着岸した埠頭ではdocomoが圏内。auは今のところ圏外。ソフトバンクは全く駄目)。明日は入港後すぐに救援物資を下ろす作業を開始できるとのこと。トラックは7トン車1台のみ(当日2台に増台)。トラックの不足か油の不足か不明。20km離れた山田町に物資を運ぶらしく2往復のピストン輸送を行うもよう。人手が不足しており、小名浜での作業と異なり、トラックへの積み込みも手伝うよう要請があった。

■3月17日(木曜)

 07:00目的地は仙台港もしくは宮古港のいずれかになるとの連絡が入る。全国知事会議の中で長崎県は宮城県の支援担当となったもよう。となると仙台港になる可能性が高い。朝 石廊崎沖を通過。ネットと携帯が使用可。昼過ぎ 犬吠埼を通過。 携帯がしばらく使えたようだが自分は食事の後片付けをしていて間に合わなかった。
 12:40入港予定時間の通知 仙台港の場合 18日10時。宮古港の場合 18日15時。出港は20日夕方の予定。現在は北西の風。今晩か明日からゆるい南の風に変わるもよう。12:50 調理事から山下医歯薬学研究科長へ本船航行中に安全レベルとすべき大気中の放射能量について電話で質問。1mSv/hを超えると重要事態なので退避する必要があるという回答があったようだが、こちらが知りたいのは航行中に基準とすべきレベルである。平常時の量:1000μSv/年=0.1μSv/h 42μSv/h×24hr=1年分 21μSv/h×48hr=1年分 レントゲンは50μSv CTはその約10倍 前日17:13、目的地が最終決定。これまで聞かされていなかった小名浜(福島県いわき市、福島原発の57km南)が最初の寄港地となる。続いて翌日、宮古の2港で半量ずつ救援物資を下ろすこととなった。福島県小名浜 原発から60km 明日7時入港 15時出港 岩手県宮古 3/19 11:00入港 3/20夕刻出港(最長)3/25帰港予定 

■3月16日(水曜)

 出航後、紀伊半島沖(朝8時頃)まで大揺れ 波高7m朝食 煮干しが美味しいが揺れがひどく3匹目は喉をとおらなかった。9時頃から揺れが落ち着く放射能測定用器材の取り扱いについて勉強会。大気中のモニタリングはシンチレーターを用いブリッジにて2時間おき。風向、風速、気温、気圧を同時測定。ポケット線量計は携帯電話、WiFi、船のレーダ等に強く反応し、船内での線量測定は実施的に不可能。シンチレーターはレーダに反応しない。
 14:00 崎野団長より説明あり。行き先は大船渡港、釜石港、宮古港のうちいずれかである可能性が高い。大船渡は海保の誘導があるが、着岸不可。釜石港は船舶が混雑中、宮古港は水不足深刻につき現時点での最有力候補。宮古港のチャートはあるが着岸の可能性について不明瞭につき調査中。吉村船長より19日現地入港、20日出港、帰港は予定より1日延びて25日になる旨が告げられる。食糧は乗船人員が直前に増えたため10日分しかなく、1日分不足するので食糧を節約しないとならない。
 18:00 大学から連絡のあった模様。行き先は宮古港ないしは仙台港になる可能性が高いとのこと。船の安全上、仙台港が望ましいとの考え方も示されるが、仙台港では火災が起こっているとの情報もある。仙台は福島第一原発から北へ約80km。本日12:00より、操舵室(ブリッジ)の扉の外で当番制で大気中放射能の測定開始。0.02 0.03 μSv/h。海上は非常に低い。ちなみに平時の世界平均の放射線被曝量は2.4 oSv/year = 0.27 μSv/h。またNHKテレビで長瀧先生が紹介した情報では、日本の平時の被曝量は1mSv/year。これは 0.11 μSv/hに相当する。本船が航行する海域の放射線量が非常に低いことを意味する。
 ※大子町においての平常値は、約0.060〜0.070μSv/h(H21年度データ)
 ※胸部レントゲン時の値:50μSv/h

■3月15日(火曜)

 09:00 鹿児島県の都井岬沖を通過 WiFi b-mobile(docomoの圏内で使用可)を通じてネットに接続可。メール連絡を行う。 昼食 カレーライス 13:55 高知港で機材の積載を決定。長大の事務職員が陸路で長崎から放射能対策の器材を運搬。大気中放射能測定用のNaIシンチレーションカウンタ1台、人体表面の放射能測定用ガイガーカウンタ6台、ポケット線量計5個、ヨウ素剤1000錠。長崎県総務部長より下田沖あるいは下田港停泊の指示あり(翌日取り消し)。長大が積み込んだ物資の内容が確認できず。積載物品の確認作業を行う。送り状に含まれていない物資がある(乾電池等)。夕食 鰻丼。あまりの美味しさに県職員の戎谷さん達が感激されていた。厨房にお伝えしたら司厨長が満面の笑みを浮かべておられた。22:30 長崎丸の救命ボート(通称鶴水号)にて青島主席一等航海士ら3名が暗闇かつ強風の中、長崎丸から高知港に向かう。船の船長、士官、乗員の方々の勇気とそれを表に現さない平常心とユーモアにはいつも脱帽する。24:00過ぎ放射能測定機器をもって帰船。

■3月14日(月曜)

 3月11日は水産学部の社会人教育プログラム「科学技術振興調整費・海洋サイバネティクスと長崎県の水産再生プログラム年度末報告会」を開催。本学OBでアサヒビール相談役の福地茂雄氏に基調講演に来て頂いたほか、北海道北見と鹿児島から講師にお出で頂いての催しのため、ホテルニュー長崎に詰めていた。その報告会の休憩時間午後3時頃に震災のニュースが入った。その夜、すでに震災救援のための長崎丸出港計画があることを水産学部長と事務長から話を聞いていたが、本日9時頃から本部で打ち合わせ会議があった。午前11時頃、本部の災害派遣に関わる会議に出席していた水産学部長と事務長が学部事務室に戻っているのを確認し、ラボから赴く。長崎県の依頼で長崎丸が本日17:00に出港するとのこと。決定している乗船者は長崎県の4名。練習船内の生活経験があるとは考えにくいので不慣れなことが多いだろうと思われた。大学本部が乗船する学生を4名募集しているという話も伺った。大きな余震と津波が起こる可能性が指摘されていること、福島第一原発が予断を許さない状況にあることなど、安全な航海にならない可能性があると思われたが、長大教員の乗船については今のところなしとの話があり、不安を感じた。後期入学試験の追試が間近であることから水産学部内も人を動かしにくい状況があり、自分に乗船命令を出してもらうよう依頼した。16:00まで当面の仕事を処理。あり合わせの衣類のみで16:30乗船。17:00まで 長崎県、長崎市、長崎大学、民間機関からの救援物資を積んだトラックが三重港に到着し、長崎丸に積載作業。救援物資の内容は次のとおり(作成リストから概略を転記)
寝具類 毛布(長崎県2988枚、長崎市100、長崎大学182)、タオルケット(長崎県270枚)衣類(長崎県 計6260枚)衣類の内訳(作成リストから転記):トレーニングウェア(LL,L,M)、紳士用パンツ(L,M)、紳士用半袖シャツ(U首、L,M)、女児スリーマー、女児ズロース、男児U首半袖シャツ、男児ブリーフ、婦人用ショーツ(L,M)、婦人用スリーマー(L,M)衛生用品(長崎大学)アルコールタオル45枚、医療用ガーゼ20袋、大人用オムツ280枚、子供用オムツ(女)891枚、清浄綿(20包)14箱、手指消毒剤203本、尿取りパッド(男)360枚、マスク(青、白、ほか)192750枚、綿玉(50g)20袋 紙類(長崎大学)ダンボール箱(各種)970枚炊事類(長崎大学)ガスボンベ15本、コンロ33台、割り箸4500本生活用品(長崎大学)タオル(長崎大学)1248枚、紙コップ10個、紙皿2130枚、ラップ180本、、トイレットペーパ454個、粉ミルク60セット、バケツ(各種)40個、ほ乳瓶24本、ポリタンク10個 電池類(長崎大学) (各種アルカリ及びマンガン電池)計3007本 電灯類(長崎大学) LEDハンドライト24個、懐中電灯(各種)60個 ポリ袋類(長崎大学) (各サイズ)計61784枚 水(長崎大学)計100トン 食料品類 いりこ(長崎県漁連)800kg、真空パックかまぼこ(長崎蒲鉾水産加工業協同組合)870kg、飲料水(長崎県漁連)ペットボトル788L分、おにぎり用乾燥海苔(長崎漁港水産加工団地協同組合)50kg名称が聞き慣れず、女性のスリーマーや男性用尿取りパッドがどんなものか分からなかった。
 17:30 中村知事が到着し出港式 中村県知事、崎野団長、片峰学長、調理事が挨拶。出航後、船内で結団式 団長に崎野氏、副団長に調理事。自分は食当を担当。食事の前に各人の自己紹介を行う。長崎大:調、萩原、田山(カウンセリング准教授)、原田(研修医)、森山(研究国際部)、濱本(財務部)、一橋(財務部)、平瀬(総務部)、土屋(山口研、M1)、松岡(工、1年)、野田(医学部3年)長崎県:崎野(消防保安室)、鈴木(資源管理課)、戎谷(福祉保健部)、内田(総務部財政課)自己紹介後、夕食 ハヤシライス 夕食後、青島主席一等航海士から船内案内と生活上の注意事項について説明があった。本船は逆浸透膜による淡水製造装置を搭載しているが、被災地付近の海域では漂流物が多いことが予測され、フィルタが詰まる恐れがあるので、船内生活での節水を要請される。洗濯機の使用も複数名分を同時に洗濯するよう依頼あり。乗船者の名簿作成(携帯電話番号も含む)、乗船者を長崎県職員、学生、教員、事務職員の4班に分け、班長を選出(各々、戎谷、土屋、萩原、森山)。船内荷物を固定。学生室も後半部はすべて救援物資が満載のため、ロープでしっかり固定する。本航海の目的地は未定。どこで何をするのか航海中に決定するとのことで、東北地方太平洋岸に向けて出港した。 

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