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震災救援長崎大学練習船派遣顛末記/調漸学長特別補佐

 震災の日、テレビに映し出される東北の惨状に言葉を失った。
 長崎にあって何ができるだろうか、答えのない自問を繰り返した。日曜には大学の水産学部から練習船を出す話が出た、確かに船なら何かできることがあるかも知れない。大学が救援に行くのならば学生を連れて行こうと思い当たった。私の医学ゼミ学生やOB研修医に片端からメールを送る。14日の朝「大学が船を出す、行きたい人は一緒に行こう。親と学部長の了解を取って、1、2週分の荷物を持って午後2時には大学本部に集合」。朝8時頃、出航が決まり、メール発信は9時。医学部3年(当時)の野田君と研修医の原田医師がやってきた。水産学部の萩原教授、生産科学研究科 の院生、保健・医療推進センターの田山准教授も乗船した。
 午後5時の出航が決まった。行き先は「東北」とだけ定めての出航だった。
 冬の海はそれなりに荒れて、乗り物酔い薬の「トラベルミン」を齧りながらの航海。仙台港は港湾火災でまだ入港できない。
 福島県の小名浜港と岩手県の宮古港で満載の荷物を降ろした。小名浜は震災後初めての入港で、私たちが入った日の午後に自衛隊の船が来るとのことであった。
 熱帯医学研究所の山本太郎教授が、岩手県の大槌町で大学病院の市川辰樹医師らと長崎大学の旗を立てて、救護所を開設していた。船から、研修医と医学生、臨床心理士の田山准教授とともに大槌で合流、弓道場にすし詰め状態で避難民がいた。水といくらかの薬剤、インスタントラーメンとにぎり飯があるのみ。
 その日のうちに、山下俊一教授と高村昇教授が福島の原発事故の緊急被ばく医療に当たっているので、手伝いに行って欲しいと連絡が来た。福島はまさに放射線恐怖の真っただ中で、両教授の獅子奮迅の活躍が始まっていた。

 私たちはこの練習船派遣を通して何を得たか――長崎大学の底力を見たことに加えて、乗り組んだ医学生や研修医がたった2週間の間に過酷な現場を前に成長してゆく姿を見て、長崎大学ブランドとしての「現場に強い人材」育成の真髄に触れたと思う。
 最後に、今は三重県のへき地の病院で研鑽する原田君からのメッセージが寄せられたので付記する。
 『発災時、僕は研修医1年目でした。何かしなければという思いだけで支援に行きましたが、自分の力不足感は強く、また総合診療の重要性を感じました。その後、総合診療の道に進み、現在は総合診療医として働いています。』

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