ホーム > 福島県での教育・支援・研究活動 > 東日本大震災から5年:長崎大学の決意
過ぎてしまえば、時の流れを本当に速く感じるものです。あの日から、もう5年が経過しようとしています。
平成23年3月11日。午前中の文部科学省での会議に出席した後の長崎への帰路の羽田空港で強烈な揺れに襲われました。東日本大震災の始まりです。夜半になって長崎にたどり着いた私は、テレビに映し出される被災地の映像に、激しい衝撃を受けました。巨大津波で無に帰した太平洋沿岸の被災地の映像は、長崎に住む私たちの心に刷り込まれたあの原子野の光景そのものだったのです。そして、福島第一原子力発電所の事故が続きました。その時点で「3.11」は、長崎の人間にとって、他人事ではなくなったのです・・・ 【全文を読む】
広島、長崎の原爆被災から70年が経過し、2016年はチェルノブイリ原発事故から30年、そして本年3月11日には、地震、津波そして福島原発事故から5年の節目を迎えます。東日本大震災に伴う矛盾や不条理、そして悲しみと苦しみを乗り越えて、まさに人生の転換期を余儀なくされている多くの人々と共に、本学の教職員も思いを一つにして復興支援にあたってきました。すでに、福島県における県民健康調査事業への協力と、川内村復興支援拠点を中心とした人材派遣と放射線健康リスコミュニュケーション、さらに種々の共同事業が展開されています。福島県立医科大学との共同大学院「災害・被ばく医療科学」専攻の修士課程も始まります・・・ 【全文を読む】
震災の日、テレビに映し出される東北の惨状に言葉を失った。
長崎にあって何ができるだろうか、答えのない自問を繰り返した。日曜には大学の水産学部から練習船を出す話が出た、確かに船なら何かできることがあるかも知れない。大学が救援に行くのならば学生を連れて行こうと思い当たった。私の医学ゼミ学生やOB研修医に片端からメールを送る。14日の朝「大学が船を出す、行きたい人は一緒に行こう。親と学部長の了解を取って、1、2週分の荷物を持って午後2時には大学本部に集合」。朝8時頃、出航が決まり、メール発信は9時。医学部3年(当時)の野田君と研修医の原田医師がやってきた。水産学部の萩原教授、生産科学研究科 の院生、保健・医療推進センターの田山准教授も乗船した・・・ 【全文を読む】
2011年3月11日に発生したマグニチュード9の東日本大震災は、想像を絶する大津波と福島第一原子力発電所のメルトダウンを引き起こした。直接の被害のなかった長崎では、県の要請を受け、3月11日の夕方には大学病院のDMATが福岡に向け出発し、12日から仙台市若林区で活動を開始した・・・ 【全文を読む】
東日本大震災を教訓として、不測の事態に備える必要性を私たちは自覚しました。当時「想定外」とされたことは今では想定の範囲となり、国も自治体も病院も企業もあらゆる組織において危機意識を持った管理体制は不可欠になりました。その1つに原子力災害への備えがあります・・・ 【全文を読む】
東日本大地震と福島原発事故の直後から長崎大学は福島の支援を継続してきました。
このCHOHO(長崎大学広報誌)特別号では、震災から4年間の長崎大学の活動を振り返り、福島の未来に向けたこれからの支援を展望しました。
CHOHO特別版 福島の未来と長崎大学