ホーム > 福島県での教育・支援・研究活動 > 東日本大震災から5年:長崎大学の決意 > 2011年3月を振り返って-当時の状況と学んだこと

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長崎大学病院からの人員派遣/河野茂理事

 2011年3月11日に発生したマグニチュード9の東日本大震災は、想像を絶する大津波と福島第一原子力発電所のメルトダウンを引き起こした。直接の被害のなかった長崎では、県の要請を受け、3月11日の夕方には大学病院のDMATが福岡に向け出発し、12日から仙台市若林区で活動を開始した。
 13日には医師と看護師からなる緊急被爆医療チームが福島に向けて出発する事になる。後者の5人のチームはガイガーカウンターの連続音が鳴り響くなか、福島県立医科大学で放射能への不安が高まる現地の医療スタッフにリスクコミュニケーションの基本から伝えて大いに信頼される活動を続けた。さらに17日からは岩手県大槌町に3つの医療チームを派遣した。彼らは氷点下の厳しい寒さと劣悪な衛生環境の中で避難生活を送る400人に対し治療薬も乏しい状況での医療に当ったのである。
 4月からは、福島県と長崎県の要請を受け、南相馬市の地域医療支援を開始した。南相馬市は一部が福島第一原発から30km圏内に入る。地元の医療従事者も避難するなかで、本院からは最終的に約3カ月間にわたって11チームが高齢者などの在宅医療に取り組むことになる。精神神経科の医師はメンタルケアに、歯科医師は口腔ケアや義歯の修理などに、看護師は作業療法士や保健師とチームになって避難所を巡回し健康状態の把握支援に活躍した。
 9月からは、福島第一原発敷地内の建屋での作業員の緊急被ばく医療支援活動のため、医師と看護師を派遣。さらに、全国医学部長病院長会議の被災地医療支援委員会の活動として、石巻市(宮城県)や北茨城市(茨城県)などにも医師を派遣した。震災発生から約1年間で、医師や歯科医師、看護師、理学療法士、診療放射線技師、事務職員の総勢73人が東北地方の被災地に出ている。過疎地域とはまた意味の異なる医療崩壊をくい止めるべく、できる限りの医療支援を行う事ことが被災地の生命と心の傷を癒し、結果としての復興を支える事が目的だったと今にして感じる。
 医療以外にも支援する事態が数多くあったであろうことは想像に難くないが、とにかく、人への直接の支援として医療の役割は大きいと信じている。今回の未曾有の国難に当たり、是非福島で医療活動に従事したいという熱い気持ちを持った当院の職員には誠に頭の下がる思いである。私自身も2度ほど福島県立医大や南相馬市を訪れることができたことは大学職員として忘れることができないものとなった。

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