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学長室

平成24年度卒業式学長告辞

2013年03月25日

                                                       先駆的記憶と新しい伝統

  例年より随分と早く満開となった桜が、君たちの旅立ちを祝福するかのように咲き誇っています。長く心に残り続ける旅立ちの日となることでしょう。
  平成24年度長崎大学卒業生の皆さん、大学院修士課程修了生の皆さん、長崎大学の全ての教職員を代表して申し上げます。卒業、そして修了おめでとう。また、これまで卒業生を見守り支え続けてこられたご家族の皆様にも、心より御慶び申し上げます。

  さて、4年あるいは6年、皆さんが長崎大学で過ごした年月は、充実したものであったでしょうか?多くの出会いを体験し、悩みそして喜び、自立した知識人として一まわりも二まわりも大きく成長したにちがいありません。今、この場所で自らの成長を実感してください。長崎大学で、何を学び、どんな個性を自らに見出し、そしてどのような志をたてることができたのか、旅立ちのとき、いま一度確認してください。
  君たちは大学で、多くのことを学び、そして多くの付加価値を身につけてきたはずです。専門領域の知識はもちろんですが、それに加えて君たちが大学で身につけた最も大切なものは、受身ではなく、自ら学ぶための方法論=「学びの技法」であり、それにより培われた想像力であると思います。机の上での勉強に止まらず、五感で感じ、体験し、考え、調べ、決断し、そして実践する、これら一連のプロセスです。多くの本を読み、レポートや論文を書く、実験や調査活動により得られた事実を積み上げて新しいアイデアや価値観を創出する、あるいは患者さんの訴えや所見から病気の診断を導く、これらの作業を通して君たちは知らず知らずの間に「学びの技法」を獲得し想像力を養ってきたのです。自らが身に付けた「学びの技法」に自信を持ってください。それこそが、変革の時代、未知の未来を切り拓くための大きな力となるはずです。

  私は、4年前、学長として初めての入学式に臨みました。そうです、学長としての私の初めての入学式告示を聞いたのは、君たちであったわけです。もう忘れてしまったかもしれませんが、その時、私は、さまざまのことを自らの頭の中で想像し、イメージし、心に思い描いてほしい。想像力を育むことが、皆さんの夢や憧れや志を育むことにつながると申し上げました。さらに、入学にあたって、先ずは長崎大学のことをイメージし、これから長崎大学で学ぶことの意味を考えてほしいと申し上げ、そして、長崎大学が有する最も大切な記憶として、長崎大学の歴史の始まりである江戸時代末期150年前の長崎医学伝習所に結集した若者たちの志のこと、1945年8月9日の原子爆弾による被災と復興に向けた先達たちの血のにじむような努力のこと、ノーベル化学賞を受賞された母校の大先輩下村脩先生が研究にあけくれた若き日々について話しました。
  人間だれしも、過去の個人的な実体験に基づく記憶とともに生きています。ところが、住んでいる土地にも、大学という共同体にも記憶があります。長い歴史の中で先達たちによって蓄積された記憶であり、それらが渾然一体となって、大学の学風や伝統、個性を形作ります。そして、それらは、個人の心のどこかに先駆的な記憶として潜伏するのです。

  長崎大学には今、後世に語り伝えられることになるであろう新しい記憶が作られつつあります。2011年3月11日の東日本大震災と福島原発事故、その直後からの被災地支援活動です。全国に先駆けて、震災発生直後に岩手県大槌町に本学医療支援拠点の旗を立て、支援物資を満載した練習船「長崎丸」は緊急出航しました。そして現在も、原爆ヒバク影響研究の伝統を引き継ぐ本学教員が、福島県民の被曝健康リスク管理という世界が注目する重要な役割を果たしています。そして来月には福島県川内村に支援拠点を設置し、村民の帰村支援を開始します。これらの活動は全国の大学の中でも突出しており、高く評価されています。それを可能にしたのは「現場に強い大学、危機に強い大学、行動する大学」という長崎大学の個性であったと思います。医学、歯学、薬学、経済、教育、環境科学、工学、水産という長崎大学の実学の系譜が長年蓄積してきた記憶に基づく個性です。

  長崎大学の先駆的記憶、これらは、君たちが意識しようがしまいが、確実に君たちの胸の中に刻みこまれているはずです。他大学の学生にはない、君たちだけが獲得した財産です。社会に出たのち、君たちが、他とは差別化することのできる個性や存在感を発揮するための財産です。大切に持ち続けてください。

  私は半年前、ある人物と出会いました。といっても100年前に没した歴史上の人物です。姓を関、名が寛斎、関寛斎という人物です。この名を君たちは知っていますか?1830年現在の千葉県に生を受けた寛斎は、やがて蘭学塾佐倉順天堂を経て、1860年オランダ人医師ポンペと幕臣松本良順によって創設されたばかりの「長崎医学伝習所」の門を叩いたのです。約150年前のことです。その2年後の春には長崎を去りますが、短い間に、良順の片腕として本邦初の西洋式病院「養生所」の設立やポンペ医学講義録の編纂などに大きな業績を残しました。寛斎の志にあふれた長崎での日々は、間違いなく長崎大学の大切な先駆的記憶です。
  ポンペは幕末の日本に、新しい医学=西洋医学を導入しましたが、同時に、医療の役割について革命的な新しい考え方をもたらしました。それまで、上位階級や金持ちに独占されてきた医療を、貧しい一般民衆にも開放しようとしたのです。ポンペは、ことあるごとに「医師にとって病人という存在が対象の全てである。階級や貧富の差別は医師の関与することではない」と、弟子たちに説いたといいます。
  長崎以降、寛斎は戊辰戦争に官軍として従軍し勝利し、栄達の途が約束されます。しかし、寛斎は早々に官職を辞します。そして、四国・徳島の市井に在って、多くの貧しい病人に無料で医療を施すなど、身分や貧富を度外視した医療の実践に身を捧げ続けたのです。土地の人々からは「関大明神」として慕われたそうです。ポンペがもたらした平等の医療を最も優れて継承し実践した弟子は、寛斎であったといってよいと思います。

  ところが、自身のキャリアを徳島での医療活動で完結しなかったのが、寛斎の普通ではないところであります。1902年、72歳となった寛斎は、一念発起して北海道原野の開拓を決断し、やがて極寒の十勝・陸別の大地に立つことになります。陸地の陸、分かれの別、陸別です。
  陸別での寛斎は、開拓事業に全財産を投入し、広大な関農場を拓きます。寛斎の志は、争いもなく皆が豊かに暮らせる理想郷を北海道に作ることにあったといわれています。やがて、自作農創設のための農地解放を目指しますが、果たせず、1912年自ら死を選び82年の波乱の生涯を閉じたのです。その頃、親交を結び、寛斎を陸別まで訪ねた徳富蘆花は、著書の中でその人柄を偲び、「高貴な単純さは神に近い」と評しています。
  昨年10月、陸別町で関寛斎没後100周年記念事業が開催され、私も記念式典での講演者として招待される栄に浴しました。帯広空港から内陸へ2時間も車を走らせると、「日本で一番寒い町」陸別に着きます。農地と林からなる人口2,700余りの小さな町です。時間があったので歩いてみたのですが、寛斎が生きた足跡が町の至るところで大切に保存されていることに驚き、大きな感銘を受けました。そして、その時、初めての土地であるにもかかわらず、不思議な懐かしさの中に佇んでいる自分に気が付いたのです。
  陸別で私が感じたあの懐かしさは、間違いなく、寛斎に由来する先駆的記憶が自分の心に呼び覚まされたが故のものであったのだと確信できます。

  東日本大震災と福島原発事故という災厄を経て、この国はいま根源的な困難に遭遇し、新しい時代への産みの苦しみの最中にあります。多様性の時代、地域の中にこそブレークスルーのヒントがあります。地域を掘り下げることで逆に国や世界が見えてきます。これまで長崎では取り上げられることの少なかった関寛斎ですが、幕末から明治の大変革期に、常に国の辺縁にあって志を燃やし挑戦し続けた寛斎が、このような時代を背景に、いまクローズアップされようとしています。寛斎という長崎大学の先駆的記憶が、150年の時を経て、新たな伝統を生み出そうとしているのです。
  長崎大学は、これからも新しい記憶を積み重ね、新しい個性や伝統を創造しつづけることでしょう。大切なことは、それを担うのは君たち自身であることです。大学に残っていようが、地域社会の中に在ろうが、海外にいようが、関係ありません。関寛斎がそうであったように、君たちの今後の活躍が、長崎大学の新たな記憶となり、新たな伝統の創造につながることを、肝に銘じてください。

  今、この国も世界も、大きく動こうとしています。さあ、君たちの出番です。君たちの活躍の舞台は、地域の、この国のそして世界中のいたるところに準備されています。背筋を伸ばし、胸を張り、そして眦(まなじり)を決して、未知なる未来へと一歩を踏み出してください。ご健闘を心より期待しています。がんばってください。最後に、卒業生の皆さんの栄光ある未来を、心より念じて、お祝いの言葉とします。

平成25年3月25日
長崎大学長
片峰 茂