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東日本大震災・支援活動

福島未来創造支援研究センター

(22)慶応2年の信逹世直し一揆

2018年11月15日

   幕末の世情が不安定な頃、全国各地で一揆が勃発し、徳川幕府への信頼と信用が崩れ、尊皇攘夷から開国へと激動の時代を経験しています。長崎でも、全く別の事象ですが、同じ頃「浦上4番崩れ」が起きています。
   明治維新という言葉が歴史上使われますが、ここ福島ではあくまでも戊辰の役から150年という報道や表記がなされます。幕末の一農民でありながら国を憂い、村人の生活を第一に学問に励み、「忠義仁信礼」と孝道を大切にした伊達市保原の金原田出身の菅家八郎は、水戸学を信奉し、その書簡が幕府の目に止まり、安政の大獄で捕縛され、八丈島送りとなっています。
   その後赦免され帰郷しましたが、信逹地方(信夫郡と伊達郡)には多くの浪人ややくざが入り込み、各地に博打場を開き、強奪・略奪が絶えず、百姓らの生活は脅かされていました。そこで八郎が有志に呼びかけ「誠信講」を造り、剣術の鍛錬をしています。あろうことか各地で大小の打ち壊しが拡大し、何万人という規模になり、ついには慶応2年(1866年)急激に10万人近くに膨れ上がった一揆が、信逹地方に暗雲を立ち込ませ、その首謀者が八郎であるとの風説が流れ、江戸や上方でも「金原田八郎世直し大明神」と呼ばれています。
   八郎首謀説に争うように身の潔白を訴えた八郎自身でしたが、謀略と風評に為す術もなく、捕縛され梁川陣屋に入牢しました。このため戊辰戦争に直接関わることなく、明治政府の官軍が福島入りの時に釈放されています。これら貴重な資料が残っている保原をはじめ、信逹地方もまた歴史の生き証人だと言えます。
   2011年3月の大震災と原発事故を経験した当時の記録も後世に伝えるための努力が必要ですし、いつの時代も風評と風化という現実の課題にいかに対応すべきかを考え続けなければなりません。1952年に高橋莞治が書いた「金原田八郎伝」の復刻版は、史実の検証の重要性と、後世の判断の難しさを教えてくれていますが、福島原発事故の世相を反映した中での真理探究の道も茨の歩みかもしれません。