2026年05月15日
ポイント
① 1985年以前は農業規模が窒素負荷の変動を支配し、1985年以降は農業構造変化が主要因となった
② 農業の地域専門化に伴い、窒素負荷生産性の格差は「地域内格差」から「地域間格差」へとシフト
③ 行政区画別に6つの発展パターンを分類し、実証・地域特性に応じた窒素管理戦略を提言
【概要】
農業活動に由来する硝酸性窒素による地下水汚染は、飲料水の安全性や生態系に深刻な影響を与える世界的課題です。従来の研究では、国・県スケールの集計分析が中心であり、流域内の行政区画レベルでの詳細な変動要因の解析や地域間格差の定量評価は十分に行われてきませんでした。こうした一律の政策アプローチでは、地域ごとの課題が見えにくく、効果的な対策が遅れるリスクがあります。
長崎大学大学院総合生産科学研究科博士後期課程の李卓霖氏、長崎大学総合生産科学域(環境科学系)の中川啓教授、九州大学大学院経済学研究院の藤井秀道教授、熊本大学大学院先端科学研究部の細野高啓教授、スウェーデン・ルンド大学のRonny Berndtsson教授は、熊本地域の10行政区画における1960年から2020年までの農業統計データを解析し、窒素負荷の時空間変動とその要因を明らかにしました。
本研究では、対数平均ディビジア指数(LMDI)分解法と加重タイル指数を組み合わせた独自の分析フレームワークを構築し、耕種農業と畜産農業それぞれについて窒素負荷の変動を「窒素強度」「農業構造変化」「農業規模」の3要因に定量的に分解しました。その結果、農業政策転換・市場変動・自然災害等複数の外部要因が窒素負荷に異なる影響を与えることが示されました。また、行政区画ごとに6つの発展パターンを特定し、地域実態に即した窒素管理戦略の立案に向けた具体的な政策提言を行いました。
本研究成果は農業システム分野の国際学術誌「Agriculture Systems」のオンライン速報版に、2026年4月27日(月曜日)(日本時間)に掲載されました。
【研究の背景と経緯】
農業由来の窒素は、作物生産において不可欠な栄養素である一方、環境汚染の主要な原因ともなっています。化学肥料や堆肥の過剰施用、および集約的な畜産業から排出されるアンモニアは、土壌中で亜硝酸・硝酸へと変換され、地下水へと浸透します。地下水は一度汚染されると数十年にわたって汚染状態が継続し、浄化が極めて困難です。熊本地域では飲料水の約100%が地下水(深部地下水)に依存しており、窒素汚染が飲料水の安全性に直結する切実な問題となっています。
これまでの研究では、国スケールや広域スケールでの窒素負荷の変動分析が主流であり、流域内の行政区画レベルでの詳細分析は十分に行われてきませんでした。また、農業の経済的側面(農業産出額)と窒素負荷の関係を同時に扱い、地域格差を定量評価した研究はほとんど存在しませんでした。さらに、一律の農業政策が流域内の多様な行政区画に対して適切かどうかについても実証的な検討がなされていませんでした。こうした背景のもと、本研究は熊本地域を対象として、60年間の農業データを活用した精緻な時空間分析を実施しました。
【研究の内容と成果】
本研究は、熊本地域(熊本市・菊池地域・西原村・阿蘇地域等10行政区画、908.6 km²)を対象に、1960年から2020年の5年間隔の農業統計データを収集・分析しました。分析手法として、(1)対数平均ディビジア指数(LMDI)分解法と(2)加重タイル指数の2つの手法を組み合わせた分析フレームワークを構築しています(図1)。
LMDIでは、耕種農業については「肥料・堆肥の窒素強度(NIFC)」「作目構造の変化(STRCH)」「農業規模(SCALE)」の3要因、畜産農業については「家畜の窒素強度(NIFA)」「畜種構成の変化(STRCH)」「畜産規模(SCALE)」の3要因に、窒素負荷の変動を残差なく分解しました。加重タイル指数では、農業産出額と窒素負荷の比率(窒素負荷生産性:NLP)を用いて地域格差を地域内格差(WRD)と地域間格差(BRD)に分解しました。
![]() 図1 分析フレームワーク |
主な分析結果:
①窒素負荷の時空間変動:熊本地域全体の窒素負荷は1985年の10,516トンをピークに、2020年には5,556トンまで減少しました。耕種農業由来の窒素負荷は一貫して減少した一方、畜産由来は1985年まで増加した後に減少し、窒素負荷の地理的重心が都市部(熊本市)から北部・東部農村地域へと移動しました。
②変動要因の転換:LMDI分解の結果、1960年〜1985年は農業規模(SCALE)が窒素負荷変動の主要因でした。1985年以降は農地面積縮小・家畜頭数減少により、農業構造変化(STRCH)が主要因へと転換し、高品質農業への転換が進んでいることが示されました。農業政策(1961年農業基本法・1999年食料・農業・農村基本法等)、国際市場動向(大豆ショック・WTO体制等)、自然災害(2016年熊本地震)がこれらの変化を駆動する外部要因として特定されました。
③地域格差の構造変化:加重タイル指数による分析では、地域専門化の進展とともに、耕種農業の窒素負荷生産性格差が地域内格差(WRD主導)から地域間格差(BRD主導)へと移行したことが示されました。畜産については、2000年に家畜頭数が急減したタイミングで極端な地域間格差が発生しました(T値:67.2)。
④6つの発展パターンによる政策分類:各行政区画の「主要変動要因(STRCH/SCALE)」と「窒素負荷生産性レベル(高・中・低)」を組み合わせ、6つの発展パターン(表1)を特定しました。このパターン分類は、各地域の実態に応じた4Rニュートリエント管理(適切な施肥量・時期・種類・場所)や高付加価値品種の導入、地域ブランド農産物の育成等、具体的な政策介入の方向性を示すものです。
![]() |
【結論と今後の展開】
本研究は、農業由来窒素負荷の変動要因と地域格差の構造を、流域内の行政区画スケールで60年間にわたり体系的に解明した点で新たな知見を提供しています。主な政策的含意として、①一律の農業政策・窒素削減目標は流域内の地域格差を見逃すリスクがあり、発展パターンに応じた地域特性対応型の窒素管理戦略が必要であること、②農業生産性の向上(産出額の増加)のみを追求すると、地下水涵養地域への窒素負荷集中を招く可能性があり、効率性と公平性のトレードオフを考慮した政策設計が求められること、③地下水への窒素浸透は数十年単位の遅延を伴うため、現在の農業活動変化を先取りした早期政策介入が不可欠であることが挙げられます。
今後は、他地域・他流域への手法の適用拡張や、地下水窒素濃度の長期モニタリングデータとの統合分析による因果関係の精緻化が期待されます。本研究の分析枠組みは、日本国内のみならず類似の農業・水文条件を持つ国際的な地域へも適用可能であり、持続可能な農業管理と地下水保全に向けたエビデンスベースの政策立案に貢献することが期待されます。
【謝辞】
本研究は、文部科学省科学研究費補助金基盤研究(A)(課題番号22H00563)および基盤研究(C)(課題番号 24K15325)より支援を受けて実施しました。
【論文情報】
掲載誌:Agriculture Systems, Volume 236, June 2026, 104766.
タイトル:Temporal and spatial decomposition analysis of nitrogen load and regional disparity of nitrogen load productivity in the Kumamoto area in Japan: An administrative-divisions-based approach using the Logarithmic Mean Divisia Index and the weighted Theil index
著者名:Zhuolin Li, Kei Nakagawa, Hidemichi Fujii, Takahiro Hosono, Ronny Berndtsson
掲載日:2026年4月27日
URL:https://doi.org/10.1016/j.agsy.2026.104766
【参考情報】
|
長崎大学総合生産科学域(環境科学系)教授 中川啓 |
![]() |
